夏。
もし今が夏であるならば、崖から飛び降りてやっても良いぜ。
崖を鑑賞しながらそんな話を姉さんとしていたら、世界の摂理が書き換えられて、夏になってしまった。
「海里……」
姉さんは、悲しい、とかそういった表情ではなく、引きつった、右口角が上がり、そこはかとないニヒリズムを内包!
姉さんは分かっていた。私が崖から飛び降りるほかない事を。従って、それを止められない事も知っていた。
「姉さん、私、飛び降りるよ」
「そうだね、そうするしかないね」
私達は抱き合った。この夏は猛暑で、照りつける日差しがあまりにも強い。2秒程ですぐさま崖から飛び降りてしまいたくなった。
「さようなら、姉さん」
私は崖際を後退していく。熱風が私の髪をさらってどこかでお弁当が半額になる。
「海里!」
崖を覗き込む姉さんが小さくなっていく。私はその姿を見た。
崖上で姉さんが何か叫んでいるけど、耳を風が撫でて行きとてもじゃないが聞き取れない。
姉さんの口元の動きから見るに……
「ミ」
「シ」
「シ」
「ッピ」
「殺人事件」
ミシシッピー殺人事件?
続きを知る前に私は水面に強く身体を打つ。そうすると変数が1減る。真が偽になる。私の存在は変容してしまう。
「わ、わあああああ」
空が青い!
海、冷たい!
魚、気持ち悪い!
私、私は何故こんな事をしている!?
世界が夏になった事により、突然の気温変化に対応出来なかった魚達がへい死、水面に浮かび上がっていた。
「とても臭い!」
嗅覚が麻痺する程の悪臭を嗅ぎ、同時に自分が一体何者であったかを思い出した。
そう、思い出したのだ。
俺の名前は山中勤。ごく普通の冴えない高校2年生だ。しかしある日突然、空から女の子が降ってきて、成り行きで一緒に暮らしている。
そんな俺だが……今はとても死んだ魚臭い!
「マジ最悪だわ」
しかしその瞬間も本当は、心のどこかでツインビーの事を考えていた。ツインビー大好き。
退屈な一学期は終わりを迎え、俺達暇を持て余した高校生は夏の訪れに歓喜した。
夏休み。
高速道路は車ですし詰めになり、外来種は川に放たれ、生態系を破壊し尽くし、愚かな人間は過ちを繰り返す……
現代社会という豚箱で生かされている俺達に、唯一許された安息の一ヶ月。
焼け付く日差しが世界を地獄に変え、湿度で視界が歪む。それは俺が暑さで見た幻覚か、薬を打っているからか。
空には綺麗な入道雲が。野良猫があくびする。公園ではしゃぐ子どもたち。そして死んだ魚臭い俺。
本当は知っている。今この時も、俺は地下シェルターの試験管の中で、夏休みのイメージを見せられているだけに過ぎない。
真実の世界では太陽のない冷たい宇宙が広がっているのを知っている。
地上には永遠の夜が訪れ、不運な者はシェルターに入る事もなく死、草木のない星で息をしない。
俺達人類は長い眠りについた。解決出来ない問題から目を背けて、俺達は楽しい空想の世界で生きる事にしたのだ。
死ぬのは明日かもしれない。それとも、もっと先の、100年後かもしれない。
思考システムに変更が加えられる。幸福がプラスされ、不安がマイにナスされる。財布の中身は5で割られる。
俺は夏休みを楽しむ高校二年生だ。今はその空想だけが真実で正しい。
夏。面倒な大人達の目を盗んで、好きにする。宿題なんて考えなくて良い。俺は永遠にこの夏休みを繰り返しているのだから!
毎日友達と遊べるし、毎日ドラム缶で焚き火が出来るし、毎日ゲーセンでツインビーが出来る。
非生産に次ぐ非生産!それこそが夏休みの醍醐味であろう。
「よ~し!」
死骸をかき分け、なんとか沖にたどり着いた。異常に臭う事以外は全く問題ない。
「さすがにこのままゲーセンはマズイな……」
仕方がない、俺は意を決して帰宅する事に決めた。風呂にする。今日のこの時間は、厄介な居候は出かけているはず。
こんな状況でアイツと出くわしたりしたら、一体何を言われるかも分からない。
やれやれ、うんざりする。どうして俺ばっかりこんな目に遭わなきゃいけないんだ?
あいつって言うのは、ある日突然空から降ってきた女の子……篠崎恵梨香の事だ。
長い緋色の美しい髪に、真っ白い肌、大きな青い瞳、それから右半身が魚人であるのが特徴だ。
とても魚臭い。
俺はやはり呪われている気がする。魚難の相が出ているのだろう。
「今年の夏も、何かありそうだな」
自販機で缶ジュースを買って、飲みながら自宅の前の坂道を上がる。
冷えた液体が喉を通っていく感覚、これこそが生きているという証明ではないか?
坂道の奥には遠い青空が。緑の木々が。自宅のドアを引けば退屈な平穏が。
それら全ては暇な高校生である俺にとっては、どうでもいい、日常の、単調なリズムでしかない。
帰宅すれば、ベランダに続く窓が開けられていて、恵梨香が水浴びをしていたのだと分かる。
親が海外旅行へ行って俺と恵梨香しか存在しない家で、窓を開けっ放しにするのはアイツしかいない。
「まったく、開けたら閉めろよな……」
しかし、そういった感情は嫌いではない事に気付いていた。好ましいとはまだ言い切れないが、言い切るのを避けたいが。
ビニールプールにはまだ水が張ってある。太陽の光を浴び水面が輝く。
恵梨香の姿は見えない。
それは俺の網膜から脳へと恵梨香が伝達されていないからだろうか?
恵梨香の事を考える。
鱗の色は橙色で、所々白くなっていた。
病気らしい。
人と魚とのハーフである恵梨香は、俺と同じ16歳。
しかしそれは左半身に限っての話で、右半身である魚(ウオ)の部分は、かなり衰えてきている、と語ってくれた。
彼女は、地上にも、海底にも居場所がない。
複雑怪奇なDNAの組み合わせと、エラ呼吸と肺呼吸の合わせの悪さと、
致命的に泳ぐのが下手な所と、あまりにも脳に刺激が強すぎる外観が原因であろう。
恵梨香はもう長くないかもしれない。彼女との生活は数毛ヶ月ほどだ。夏を2人そろって越せるのは、これが最後になる可能性は十分にある。
俺は恵梨香に同情しているのだろうか?同情など、人間が抱く何れかの中で最も愚かな感性だ。愚か!
考え事が過ぎる。早く風呂に入って、ゲーセンに行こう。何故なら俺は暇を持て余す高校二年生だからだ。
「……勤君?」
か細い声がする。それを恵梨香の声だと認識するのには時間を有した。それはいつもより、ひどく病弱な色を含んでいる。
どちらかと言えば心配症な高校二年生なので、声のする方へと向かう。
俺の家は迷路だ。迷路を家と呼んでいる。近隣住民はこの家に苦言を呈している。
「恵梨香ー!」
白い壁が俺と恵梨香を阻む事数分。
キッチン(スタート地点から通路を右、右、右、左、右)に恵梨香は居た。キッチンの隅に座り込んで、俺を見上げる。
随分と衰弱した姿で、それは先程の急激な気温の上昇、が原因のひとつかもしれない。
俺は何かを思い出しそうだった。しかしそれは俺の存在の根底を揺るがす事請け合いな過去であるので、0.9秒でこの思考を止める。
「恵梨香、死ぬのか」
「うん」
平然と答える、何もかも分かりきった事だったのだろうか。
彼女の髪はまだ濡れていて、水浴びしてからすぐにキッチンまで這ってきたのだろうと分かる。
俺はなぜかそれが悲しくて、しかしそれについて涙も出ない自分が一番悲しかった。
「救急車」
気が動転していたため、俺は普遍的な対処を取るのに遅れが出た。しかし恵梨香は俺の腕を抑えて、首を横に降る。
「人間と魚のハーフを見てくれる所なんてないよ」
「でも……」
「私はありえない存在だから。実験で生み出された生命を持続するのはとても難しい。それは私も理解していたし、私は最初から運がなかっただけなの」
触れられた手から分かるが、恵梨香の右手(魚)は非常に乾いて、まるで年寄りの手みたいだ。
左半身で若々しい少女の様に笑い、右半身で年老いた老婆(老魚)の様に笑った。
その時間が少し、永遠に感じられた。本当は5秒にも満たない少しの時間で、俺のつまらない錯覚に過ぎなかった。
恵梨香はキッチンの引き戸を開ける。包丁を取り出して、俺の手に押し付けた。
冷えた刃の感触が夏の暑さの中ですぐに薄れていく。人肌にぬるくなっていく。
「殺してくれる?」
「分かったよ」
刃を突き刺す。それは胸部だったか、腹部だったか、記憶出来ない。
脳が拒む、俺の記憶データからどんどん失われていって、恵梨香の情報が抜け落ちていく。
それはシステムが俺の感情の制御を行っている事が原因だろう。空想の同居人の死に俺の心は酷い(何らかの感情)を抱いた。
喜びを足すだけでは俺の心は癒える事なく、悲しみを減らしても俺の心は癒える事なく、システムに感情の根底を削がれてしまった。
(何らかの感情)が俺の中から失われる様に、恵梨香の事も失われていくのだった。
強く覚えていようともがく度に忘れていく。恵梨香の言葉、咳払い、微笑み、夏の日差しも、恵梨香と過ごした日々が消えていく。
やはり涙ひとつも流れはしなかった。
知覚すら出来なくなる。瞬き、次の瞬間、キッチンの隅にはただの濡れた床だけが。きっともうこの世界に○○は存在しない。
○○のデータとしての実態も、それはつまらない乱数で作成された奇っ怪なキャラクターに過ぎないのだから。
「な~んだ」
包丁には濃い緑色の液体が付着していた。それを俺は流しで洗いながら、ツインビーの事を考えている。
○○……○○は、存在した。でも忘れてしまいたい。俺は俺の犯した過ちを知っているし、この液体こそが惨劇の確固たる証拠である。
しかし酷い気分はとうに消えてしまって、白昼夢にも思える体験を俺は、嘘だと思いながらも信じている。このような体験は、一度だけじゃない。
台所が緑で彩られる日差しが照りつける夏の日も忘れてしまう、俺はいつまで繰り返す?
○○が存在した証拠も、○○を殺した証拠も、全部消えてしまった。
それらの記憶を結びつけるのはこの包丁一本しかない。これは全て俺の空想の世界の中での出来事なのだから。
熱気にヤラレた冴えない頭で思考するのは0と1の並びじゃなくて、筆記体の観察日記だ。
包丁をゴミ箱に投げ捨てる。奥底へ落ちる音、がこん、俺の世界から存在が消える。
さあ出かけよう。夏休みの高校生は忙しい。
今日は暑い。
昨日もとても暑かった。
明日も暑いのだろう。
迷路をたどって玄関に出る。ドアノブに手をかけようとする、手をかけた、ドアノブをひねる、しかし次には俺の肩に手が置かれた。
「海里」
奇妙なイントネーション、しかしそれは俺の思い違いか、小さなバグかなにかですぐさま正しい音の並びに書き換えられる。
「誰だ、アンタ……」
知らない女だった。微笑んでいる。この夏の暑さに汗一つもかかずに、それどころか不法侵入だ!
「警察呼びますよ!」
警察、と自分で言った言葉に一瞬動揺する。俺は殺したんだった。(何か)を。
しかしそれは、己のなかでかなり不確かなものとして存在していたが、皮膚を突き破る手応えだけはまだ手元にあるみたいだ。
眼の前の女は、言葉に動じる事もなくただ笑った。のちに、カバンから古びたゲームカセットを取り出す。
「海里はグラディウス派でしょ」
その時、私は全てを思い出した。